慣れ親しんだ高校を卒業し、社会人となった私の出来事を書き記したいと思います。
~地元飲食店へ就職~

2010年3月1日。
慣れ親しみ、3年間通った高校を無事に卒業。と同時に社会人へのカウントダウンも始まっていました。
実は私の入社する飲食店の入社式が卒業式の10日後と迫っていたのです。
高校卒業したら卒業旅行に行きたかったのですが、部活動を続けていたことに加えて入社と同時に、実家を離れる準備をしないといけなかったのです。
高校卒業して約10日後。
地元でも有名な飲食店に入社しました。ホテルのホールを借りての入社式。私含めて同期は16人。みんな高卒・同級生でした。
入社式を終えて昼食をとった後、新入社員は大学の研修施設へ移動。
いよいよ本格的に社会人としての生活が始まりました。
~地獄の研修~

研修は1週間に及びました。朝6時に起床しグラウンドを3周走ってラジオ体操。その後、朝食を取り終えたら9時から18時まで研修。
そこで毎日、商品(弁当やうどんなど)に何が入っているのかなどを確認するテストを行い、壁に毎日の成績を張り出されました。それが一番嫌で苦痛でした。
1週間に渡る研修を終えて、本格的にお店での研修へと突入。
実際にお客さんと接客し商品を注文し出来上がった商品をお客さんの元へ。最初は慣れない会社独自の商品の注文方法も、段々と慣れていき同時に複数の注文を受けられるようになるまでに行きました。
そして、研修から3ヶ月経ち自分が正式に所属する店舗で働き始めました。
~本格的に勤務開始。しかし心と体に異変が~

市内中心部での店舗で本格的に勤務が始まり、任される仕事も増えていきました。店頭の弁当販売、店内での接客に加えて宴会の担当まで任されることになりました。
入社し勤務を始めて1年経ち、後輩が入社し研修が始まりました。
私にとっては初めての後輩。と同時に後輩への指導もするようになりました。自分の仕事に加えて後輩の指導。さらに私には他店舗へ応援で働きに出ることもありました。
そこから、心と体に異変が出るようになりました。
体の疲れが取れなくなり、最初は休めば大丈夫だろうと思っていましたが、疲れが取れるどころか増していくばかり。夜も眠れず朝起きるのも辛く感じることが増えていきました。
そして、ご飯も喉を通らなくなり朝起きる度に体の拒絶反応(吐き気が多かったかな?)も出るように。
何とか支度して出勤するものの電車の中で息苦しさを感じることが多くなり、最終的に欠勤する日が日が経つにつれて増えていきました。
そこで店長が病院を紹介し受診することになったのです。
〜悲鳴を上げ休職。そして…〜

紹介されたのは心療内科。
そこで、自分の主な症状や、これまでの仕事内容や職場内の人間関係などを聞かれました。
そして…
渡されたのは診断書。「うつ状態」まで追い込まれていたのでした。ドクターストップになるまで働き続けた私。もう心と体はボロボロでした。
翌日、店長に診断書を渡した後、休職期間に入りました。
父親に「休職することになった」と一言メールし親戚宅で療養することになりました。
休職期間中、罪悪感が強く出て「私が休んでしまったせいで…」「私が元気でいたら…」などと、ずっと自分を責め立てていました。
親戚宅で療養している間は、動ける時には料理の手伝いをしたりして少しでも役立てればと思いながら、その日その日を生きていました。
休職して、およそひと月半後に会社の次長から連絡があり「今後のことを話せないか?」と言われました。その前の時点で私の考えはまとまっていました。
数日後、次長との話し合いで私が差し出したのは「退職届」
私は、これ以上会社で働くのは無理と思い退職届を渡しました。
もうひとつ、大きな決め手となったのは父親の言葉でした。
療養している間、父親からメールがあり「家に帰っておいで」と返信があったのです。
最初は会社を辞めることに反対だったものの、私の考えを受け入れてくれて、あの言葉を掛けてくれたのかもしれません。
こうして、約1年半勤めた会社を辞め実家へ帰ったのでした。
[今の私が言えること]

もっと早いうちに辞めるべきだったのかなと思っています。体は本当に正直で、無理してまでも仕事へ行く必要はなかったかなと感じています。
それに、タイムカードを改ざんされたりすることがあり、それがいけないことだと、その頃は分からなかったのですが、今考えればブラックだなと。
人間、無理してまで仕事や学校に行く必要なんてない。辛かったら休むことも一つの手なんだということを伝えたいです。
長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました。

生きづらさを抱えながらも仕事してる人間。適応障害と発達障害(の疑い)を抱えながらも生きています。時々、ライターとして記事も書いてます。よろしくお願いいたします。