1:「毒親」と「呪い」
【毒親】
『毒になる親(どくになるおや、英: toxic parents)は、毒親(どくおや)と略し、毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親、子どもが厄介と感じるような親を指す俗的概念である。』
引用:「毒親」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%92%E8%A6%AA)
閲覧日:2019年10月04日
【呪い】
『呪い(のろい)とは、人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらせしめようとする行為をいう。』
引用:「呪い」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%AA%E3%81%84)
閲覧日:2019年10月04日
この二つの単語が合わさると、子の人生に一生消えない苦しみを残すことになる。
僕はこの呪いから逃れられない。
運命だとか宿命だとか、そんな言葉は言わないし要らない。
これは本当ならかからなくてもいい、必要のない呪いだから。
最初に僕が呪いをかけられたのは中学生のときだった。
「結果が出なければ、どんなに努力していたとしてもやってないのと同じ」
母親に、こう言われた。
それ以来、僕は何に対しても成功事例というものが無い。
結果を出してこなかったからだ。
努力はして当たり前。
しかし、結果が伴わなければ全て無かったこととして扱われる。
今でも、この呪いは僕を苦しめている。
次は10代後半。
最初の高校を1ヶ月で辞め、アルバイトをしていたがうつ病が酷くなり通勤できなくなってしまったくらいの時期だった。
母親は毎日働き詰めで、そもそもワーカーホリック(仕事中毒)であったが、再婚相手が事業に失敗したがために、さらに働くことにのめり込んでいた。
「あんたの話なんて聞きたくない!」
僕はまだ母親に希望を持っていた。
母親に僕のことを少しでも分かってもらおうと、自分について色んなことを話そうと頑張っていたのだ。
そんなとき言われたのが、このセリフだった。
僕は話すのを止めた。
僕の気持ちを、心の内を、誰に話せばいいか分からなくなってしまったから。
一時期、しゃべらない・笑わない・反応しない・表情がないという状態に陥った。
テレビを見ていても、家族が笑うと「今の何が面白い?」と思っていたり、「今、何て言ってた?」と考えていたりが多く、内容が分からなくなって困ってしまった。
次は僕が成人後、誕生日を祝ってもらっているときのこと。
母親は酔っぱらっていたと思う。
「あんたはあいつ(戸籍上の父親)にレイプされてできたんだよ。暴力が酷かったし、抵抗したら死ぬかもしれないからさ」
「あいつ(戸籍上の父親)がお金を全部持って行くし、生活費もくれないから堕ろせなかったんだ」
僕は受精するときから要らない子だった。
僕は笑った。
思いっきり笑った。
まるで面白いコントを見たときのように笑った。
笑うしかなかったんだ。
もう何も言える言葉も無くて、幼い頃からずっと感じていた(生きていてはいけない・消えたい)という気持ちの理由が分かった気がした。
永遠と書けるが、この紹介だけで終わるわけにはいかないので次で最後。
あれは精神科の治療中(現在も治療中)に母親と離れることを担当医に勧められていた時期で、僕は母親に過去の清算を求めていた頃。
「あんたの愛し方が分からない。そもそも私は親に愛情を求めたことがないから」
僕は母親じゃないし、祖母でもない。
愛情が欲しかった。
愛して欲しかった。
無償の愛が欲しかった。
祖母から虐待を受けても、養父から虐待を受けても、身を挺して守ってくれたことが一度も無かったのは愛されてなかったからなんだ。
幼い頃からずっと母親に愛を求め続けた結果がこれなんだって分かったとき、僕は母親を捨てることを決めた。
2:毒が起こす異変

僕の身体に、最初に異変が起こったのは遅かった。
自殺願望や自殺企図とは明らかに違うものだった。
リストカットを始めたのは9歳だったため、それに比べたら本当に遅く出てきたと思う。
「1:「毒親」と「呪い」」でも書いたように、10代後半で一切の感情が無くなったようになったのが最初の異変だったと感じている。
母親からの「呪い」という毒は、何度も何度も僕を刺し、少しずつ少しずつ静かに僕を蝕んでいった。
表情が無くなったときは一時的であったが、その後反動のように表情豊かになった。
表情豊かにしていると母親の機嫌が良かったのだ。
癖になった。
どんなに辛くても、心の中で泣いていても、怒っていても、僕は笑顔でいるようになったのだ。
成人してすぐ、僕は自殺未遂を起こした。
意識レベル300(痛み刺激に反応しない)状態で救急病院に搬送され、それから5日間眠り続けた。
自発呼吸が頻繁に止まるため、人工呼吸器を装着するという日の早朝、僕は眠りから覚めた。
目が覚めた僕に母親は今までにないほど優しかった。
僕は求めていた愛情をもらえてると思った。
それは僕の勘違いだったと、後に痛いほど分かってしまう。
このとき今までにないほど母親が優しかったのは、病院を回って励ましたり勇気付けたりするボランティアのそれと同じだったのだ。
僕は目が覚めたことを後悔した。
何故、目が覚めてしまったのか・・・ずっと眠っていられたら良かったのに・・・そう思い続けた。
異変は現れては消える、を繰り返す。
突然瞼が開かなくなり、指で支えていないと瞬きすらできなくなった。
通院には誰かに着いてきてもらい、誘導してもらわねばならず、役所に行かなければならないときには、近所に住んでいた友人に頼んで手を引いてもらっていた。
治まるまで1年半ほどかかったが3ヶ月に1度、両瞼に注射を打つことで徐々に良くなっていった。
瞼の異変が消えると、今度は右腕が無意識に後ろへ行ってしまう症状が出た。
チックと呼ばれるもので、自分の意思とは関係なく起こる不随意運動の一種で、素早い動作が繰り返し起こる。
身体のどこに現れるかは人によって違うが、僕は右腕に出たために、文字が書けなくなり、右腕は様々なところで打ち、一切言うことを聞いてくれない右腕に辟易した。
チックが治まるまでは1年ほどかかった。
それから始まったのは、今思い出しても辛い症状だ。
24時間ずっと過呼吸状態になった。
常に呼吸がおかしい状態が24時間続く。
これほどキツイものはないと言っていいくらいだった。
眠ることすら苦しくてできない。
喋るのも苦しくて細かく区切ってしか伝えられない。
どの態勢になっても苦しくて落ち着くことがない。
リラックスなんてできるはずもなく、僕は何度も呼吸を止めようとした。
でも、呼吸を止めたからといって何とかなることはなく、ただただ徒労に終わる。
この24時間過呼吸は、キツかったが割と早く治まって半年ちょっとで良くなった。
ここから1年くらい記憶が無くなってる。
どうやら感情コントロールができなくなって、パートナーに対してとても酷い言動をしていたようなのだ。
後からパートナーに聞いて、自分でもビックリしたほどだが、詳しくは教えてもらえていない。
パートナーも思い出したくないと言うほどだから、相当酷い言動をしたのは間違いない。
それなのに僕には記憶が抜けてしまっている。
今でもパートナーには申し訳なく思っている。
そして今から4年ほど前、朝起きたら足が動かなくなっていた。
主に左足が。
右足は何とか頑張れば動く。
車椅子生活が始まった。
外出するときには決まってパートナーに階段を下りる手伝いをしてもらい、車椅子で移動。
整形外科をどれだけ回っても原因不明。
決まって「精神的なものですね」と言われ追い返される。
整形外科ではレントゲンしか撮影せず、骨に異常がないから整形の分野ではないと言われてしまうのだ。
MRIも撮ってもらえず、神経や脳神経の検査もしてもらえない。
僕は総合病院を回っているのに。
そんな生活が3ヶ月ほど続いたころ、僕は車椅子でしか移動できないストレスから、クラッチ杖を購入し強制的に歩くことにした。
以降、一進一退を繰り返しながら現在もクラッチ杖を使いながら歩いている。
もちろん、いつまた歩けなくなるかは分からないし、今も左足は動かない。
それでも僕は歩く。
3:離れたとしても・・・

僕は自立をした。
25歳くらいだったと思う。
離れて暮らすことになって、僕はやっと解放されると思っていた。
パートナーと暮らすわけだし、もう手出しはできないだろうと。
でも「呪い」という名の毒には針があり、ずっと刺さったまま抜けることなく僕は毒を受け続ける。
ふとした瞬間に「呪い」の言葉を思い出す。
繰り返し思い出しては精神が病んでいく。
結果を出していないから努力をしていない僕。
最初から要らない子だった僕。
偶然お金が無かったから産まれただけの僕。
誰を信じていいか分からない僕。
手を伸ばせば払いのけられる僕。
怖がりな僕。
愛されない僕。
愛が分からない僕。
褒められるとどうしていいか分からない僕。
フラッシュバックして当時の言われたときに戻る。
気持ちがあの頃に戻って、今現在目の前で言われている錯覚を起こす。
僕はどうしていいか分からず、記憶を失った。
「2:毒が起こす異変」でも書いたように、パートナーに対し酷い言動をしていた1年間だ。
本当に何を言ったのか覚えていないのだ。
パートナーが語ろうとしない1年間。
想像以上のことをしたのだろうと推測はできるが、どれだけパートナーを傷つけたかは計り知れなかった。
パートナーは今でも僕に優しい。
僕が思い出せない1年間を耐え抜き、まだ僕の傍にいてくれる。
パートナーがいてくれて、本当に良かったと思っているし、心から感謝している。
4:憎しみだけが支えに

母親から離れ、僕は様々なことをパートナーと経験した。
担当医とも10年の付き合いになる。
そこから導きだした結論は、母親に直接決別を宣言することだった。
まず僕がしたことは、母親が話す内容に一切相槌を打たないこと。
母親の話すことを一切頭に入れないことにした。
担当医からは共依存関係であると言われていたために、僕のすることは僕に相当な痛みを与えた。
心が痛む。でもそれは相手を思っての痛みではないことを僕は知っている。
少しずつ、母親の言動に同意しなくなり、伝えたいことはパートナーを介するようになった。
心が痛む。
母親が怒っていることが分かる。
母親は表に出さない。
それでも僕に対して猛烈に怒っていることは分かる。
担当医とパートナーと相談しながら、サポートされながら僕は母親から離れていく。
電話には一切出ない。
怒りのメールが来る。
それも無視する。
心が痛む。
同じ病院に通院していたため、待ち時間に同じ喫茶店で会う。
「もう何もかも僕を誘うのを止めて欲しい。貴方の好きなものは僕は好きじゃない。何もかも医者じゃなく僕に聞くのも止めて欲しい。僕は医者じゃない。分からないことを、すぐ僕に聞くのを止めて欲しい。自分で調べて。僕に言えば全て何とかなると思っている甘えを止めて欲しい。貴方の話は聞きたくない。」
僕はとうとう母親に宣言した。
心が砕けた・・・かに思えた。
だが、本当に砕けたのは僕の心じゃなく、母親が作った僕の偽物の心だった。
弱い、弱い僕の心。
それはずっと僕ではなかった。
この現実に気が付いた僕は、母親に対してとてつもない怒りが沸いた。
憎んだ。
母親を。
憎むことで僕は僕を取り戻そうとしていた。
復讐してやろうと、やられた分やり返してやろうと。
僕はこれから一生、母親を憎み続けて生きてやる。
母親がどれだけ謝っても僕は許さない。
僕がどれだけ傷ついたか思い知らせてやるんだ。
それを支えに生きてやる。
僕は自分を見失った。
目を覚ませてくれたのは、やはりパートナーと担当医。
それから、友達。
僕は高校に入りなおしていて、当時1年生だった。
人と上手く距離が取れない僕は、ネットの高校というのはいい距離を自動的に保てると思って入学した。
物を作ることが好きな僕はハンドメイドアクセサリーを作っている。
ハンドメイド同好会に入り、当時3年生だった先輩と一緒にハンドメイド展を東京で開催した。
僕と同じ年の先輩、僕より遥かに年下の先輩。
様々な人がいて、様々なバックボーンを持ち、様々な考え方を持つ仲間。
日本中に友達は散らばっているが、会おうと思えば会える。
新しいことにチャレンジするために会社を辞めた友達、夜中が大好きな友達、雨が大好きな友達、素敵な写真を撮る友達、コスプレで素敵に輝く友達、ハンドメイドでブランドを作りたい友達、僕が辿ってきたようにマイノリティーで悩む友達、会社で居場所を見つけ自ら「社畜」宣言する友達、あるキャラクターが好きすぎてその会社に就職したくて頑張ってる友達・・・。
僕の狭い世界は扉を開けた。
世の中、こんなに自由だった。
みんな僕に何かあれば心配してくれる。
世の中は、こんなに優しかった。
ちゃんと世の中や周りを見ていなかったのは僕の方だったんだ。
僕の中で母親への憎しみが小さくなっていく。
話せば聞いてくれる人はたくさんいる。
中には聞いてるフリをする人もいる。
それは仕方のないこと。
その人の手に負えないか、その人の脳がパンクしてしまうかもしれないから。
ちゃんと話を聞いてくれる人はちゃんといて、あなたを待っている。
僕は僕を心配してくれた友達のようにあなたを心配している。
ヒカリテラスには「こころシェアタイムズ」という相談コーナーを設置している。
ヒカリテラスでは、あなたの声を待っている。
苦しい今を、勇気を出して言葉にしてほしい。
:最後に:

こんなに長い記事を最後まで読んでくださってありがとうございました。
僕は僕を生きることが、こんなにも自由を得ることだとは思っていませんでした。
もちろん今でも僕には悩みはあります。
呪いから解放されたわけじゃないんです。
それでも僕は生きていくことにしました。
夢ができたから。
叶うか、叶わないかではなく、叶えたいと思うかどうか。
それが大事だと思っています。
これから様々なテーマで記事を書いていきたいと思っています。
それでは、次のテーマでお会いしましょう。

「生きづらい」という想いに共感と理解を届け、本質的な生きづらさと自殺問題の予防と解決に取り組んでいる任意団体です!