10代も終わりを迎えると、ある程度酸いも甘いも恋愛事は経験するし、見聞きもすると思う。
好きなアイドルやアーティストの歌詞に憧れていたティーンの時代も過ぎて、
なんだか、自分の思い出に浸っては共感できてしまう、そんな歳になってきた。
失恋ソング、恋の葛藤を歌った歌詞。
そんな曲を聞いて心を震わせてしまう、大人になってしまった。
かれこれ、数人とお付き合いをして、関係を持ってきた私だけど、
全員に言われたセリフをフラッシュバックのように思い返し、心を痛めつける夜がある。
「君って、1人でも生きていけそうだよね。」
「俺がいなくても、大丈夫そうだよね。」
そんなことをみんな冗談そうに言って、笑って見せたりするのだけど、
最終的には、こんなことを言われてしまう。
「本当に俺のこと、好きなの?」
苦笑いしかできなくて、お別れしたことも何度か。
私は正直に言ってしまうと、人を愛することができない。
人に親切にはできても、愛情は沸かない。
薄情な人間なんだと、酷く落胆をしたけど、愛することができないのは事実。
それが、世の当たり前でないことも事実で。
世の当たり前の女の子と同等の愛される幸せが欲しかっただけなんだけど。
そんなにそれが欲張りだったりしますか?
いや、私のせいか。
私が人を愛したり、愛されたりすることが出来ないから悪いんだろうな。
でも、よくわからない自己卑下をするのも虚しいだけで、何かのせいにしたいのが本望だった。
行き着いたのは、アセクシャル・アロマンティック。いわゆる無性愛を指す。
でも、果たしてそうか?という疑問も心の中でいっぱいだった。
セクシャリティという区別はあれど、個人差はある。
しかし、そこにある恋愛感情に感じるのは単なる「不快」でも「恐怖」でもなく、もっと根本的な不信感だった。
私、アセクシャルでも、アロマンティックでも無くないか?
どんな甘い言葉や好意に対しても、まず思うことは
「どうせ裏切られる」なのである。
不信感が前提にあるから、分厚い壁をつくり、自分の弱みを見せない。
いつ裏切られてもいいように、離れられる準備をする。
頼りたいと思っても、頼る前に何とかなってしまう。
目の前にいる好意を向けてくれる人に対して、期待も信頼もできないのだ。
もちろん、好意よりも不信感が先に来たり、大きくなったりするので、好意は消える。
だから気づいた時には、
「本当に俺のこと、好きなの?」と言われ、
お別れをすることばかりになってしまっていた。
好きなのかと言われたら、それも分からない。
不信感で好意が押し潰されているから。
頼ることも、甘えることもできない。
気付いたら、1人で生きていけることだけが長けてしまった。
1人で生きられそうという言葉は、
私にとっては、愛し方も愛され方もわからなかった故の副産物に与えられた評価なのだ。
数年前、ハロプロのアイドルが「ひとりで生きられそうって それってねぇ ほめているの?」と歌った曲が人気になった。
例に漏れなく、私もその曲が好きになった。
彼女たちは最後にこう歌う。
「胸張る私になって 誰か愛したい」
私だって願うなら、好意を受け取り、愛される普遍的な幸せを手にしたいし、当たり前に誰かを愛すことのできる人間でありたいと思う。
word by 晏未

あみと読みます。東京の大学生です。コスメが好きです。
一般的に生きているはずなのに、どことなく生きづらいなぁと思って生きてます。